或る人の記憶

生きづらさを抱えた人間が日々感じたこととか買ってよかった物とか作ったごはんとか色々書いてくブログです。

初めての作詞で、落ち込みすぎない思考も必要かもしれないと思った

つい最近まで躁でも鬱でもない状態だったと思ったが、今日は最高気温20℃以下と一気に寒くなり、気圧の変化にブルーデーと風邪の体調不良も重なって、一気に鬱になってしまった。

こうなってくると一変、人の反応を気にせずSNSをやっていたのが、一気に人の反応を気にする自分に逆戻りである。

元気な時ほどポスト量も増えるため、ポスト量に対して反応少ないな、とか気にしてしまって、それで余計に落ち込む傾向にある。

再びXログアウトタイム襲来かと思った。

 

だけど、今回は考えを変えてみようと思った。

「たまたま」だったんだと。

 

風邪とブルーデーと低気圧が重なるなんて不運だ。

そんな「たまたま」なタイミングで、「たまたま」特定フォロワーからの反応がなかった。

落ち込むのは仕方ないが、落ち込みすぎることでもない。

だって仕方ないんだもの。

 

私は仲良くしたい人からSNSに反応があると嬉しい。

だけど、それに執着している部分もある。

フォロワーも、たまたまSNS見てないタイミングで私が病んでてもどうしようもないし知らんがなって話だと思う。

 

私は特定の人に依存しては、理解してもらいたいと思って執着する。

それは愛着障害によるものだ。

その人が人間的に好きというものもあるが、母の愛情の代わりをずっと求めているのだと思った。

それに気づいてからは、もう理解されなくてもいいと思えたが、それは前向きな感情というよりは諦めにも近いと思う。

 

だけど、一つ確実に前向きになるきっかけになった出来事がある。

私が昔から応援しているUTAUやボカロの作曲者さん(いわゆるボカロP)に歌詞を提供することになったのだ。

きっかけになった記事は以下になる。

dustarna.hatenablog.com

声をかけていただいた時は、私でいいのだろうかと思った。

だけど、そんなこと言ったら勇気を出して声をかけてくれた相手にも失礼だし、自信がなくても一度チャレンジしてみようと思った。

 

書けるか心配だったが、たまたまアイディアがあったのとブログの過去記事にいい感じのエッセンスがあったので、書いてみたら書けた。

既に2曲分書き上げて提出し、メロディをつけてもらって編曲待ちというところにきている。

 

初めてのコラボ、初めての作詞で、私は自分の書いた文章が『作品』となることに感動した。

今まで一人で何かしら文章を書いてきて、評価されなければ落ち込んで終わりだった。

だけど歌詞にメロディがついて、そのまま聴いたら一つの完成された歌になっている。

 

私が書いたって、言わなければ誰も分からないと思う。

だけど、似たような経験をした人が聴いたら救われるかもしれないと思った。

 

曲が出来上がったら、知り合いにも聴いてほしいと思ったけど、反応がなければ怖いとも思った。

だけど夫には褒めてもらったから、それだけでいいとも思った。

音楽の好み、歌詞の好みは人によって違うから、作曲者さんのリスナーに評価してもらえたらそれでいい。

まだ世に出てはいないが、私は作詞をしたんだという事実が、私の自信に繋がった。

 

そこから少し前向きになって気づいたことがある。

私は自分が躁鬱っぽいと気づいて、持続性気分障害と分かって、躁鬱ほどではなくとも生きづらいと分かった。

だけど、診断されていないだけで何かしら抱えている人も多いんだろうなと思った。

そう思ったら、理解されようと必死にならなくても、きっと共通の痛みとして無意識下で分かりあえると思った。

 

私は、人に理解されることにこだわりすぎなくてもいいし、落ち込みすぎなくてもいい。

自分にも相手にも、理解しあえないモノはある。

理解しあえないからといって共通点がない訳ではないし、共通点がないからといって理解しあえないということもない。

他人と生きるってそういうことなんだと思った。