或る人の記憶

生きづらさを抱えた人間が日々感じたこととか買ってよかった物とか作ったごはんとか色々書いてくブログです。

承認欲求

承認欲求というとイメージは悪いが「承認されたい」という欲求は悪いものではなかろう。

 

SNSをやっていると承認欲求が目的になってくることがある。

だが誰だってそうだろう。

反応があったり、フォロワーと交流したり、何かしら自己の存在意義を感じられるから続けるのだろう。

見る専の人は置いといて。

 

壁打ちSNSを続ける意味があるのか?

もはや全世界に公開する意味があるのか、日記でいいのではないかと思ってくる。

 

Twitter亡き今、Xは独り言発信や交流の場としての役割は終わった。

今は承認欲求と金目的のツールでしかない。

大量に湧いたゾンビがその証拠だ。

 

クオリティフィルターやおすすめという名の検閲アルゴリズムに弾かれ、人目に触れることがなくなった皆様方。

心身いかがお過ごしでしょうか。

 

私はXをやっていない時の方が幸せで元気です。

その証拠に、Xを見た後はこのような不健全な記事を書きます。

 

Twitterはリアルタイムさが売りのツールであった。

リアルタイムで使えない以上、もはや使う理由はなくなったのだ。

Twitterは亡くなり、ユーザーのライフスタイルも変わり、もはや終わったのだ。

 

私を引き止める人、あなたもきっと同じはずだ。

フォロワーの誰からも反応がなくなった時、あなたはXを続けるのだろうか。

 

「これはあの人が好きそうな趣味だ」

そう思った投稿が電子の塵になった時の虚しさ。

 

どんな投稿ならば反応してもらえるのか?

Xのアルゴリズムはわからないが、ネガティブな反応は受け入れられない。

Xという場でなくても普通にスルーされる。

 

楽しかった日の記録を写真と共に載せると反応がつく。

だが、良い出来事しか書かないと猫を被っている気分になってくる。

 

ありのままを書き綴ることはもう出来ない。

だが、反応がないと虚しい。

 

投稿しなければ、反応の有無を気にしなくても良い。

そうしてやらなくなっていった。

 

私一人がXから消えたとて、大して影響はないだろう。

むしろ、こんなめんどくさい投稿してる人が消えて、フォロワーも万々歳だろう。

 

社交辞令という名の毒で苦しめる人。

本当に消えてほしいのか触れもしない人。

 

昔からの付き合いのフォロワーに、こうして白黒つける私。

ろくでも無い。

 

私はこうして、試し行為をしながら転生を繰り返してやってきた。

持続性気分障害と分かった今、堂々と試し行為をしていたと言えるし、メンヘラだったと言える。

私は普通ではいれないのだ。

 

だからどうしたいか?と聞かれてもどうしようもないのだ。

こうして一人で書いて発散して忘れるしかない。

 

ブログという逃げ場があってよかった。