或る人の記憶

生きづらさを抱えた人間が日々感じたこととか買ってよかった物とか作ったごはんとか色々書いてくブログです。

汝の敵を愛せよ-Xでブロックされた時に思い出したい言葉

Xで私をブロックしてきたアカウントのことを考えてしまう。共通フォロワーがいるから目に入ってしまうし、以前よく目にしてただけに気になるのだ。

 

昔の私は、フォロワーの一人がトラブルを起こしたことを知って、ブロックしてTLでズタボロに悪口を言ってしまった。

そしたら共通フォロワーがその内容を本人に見せたようで怒りを買ってしまい、他の共通フォロワーにも私の悪口を言いまくったり、鍵アカウントにした後も共通フォロワーに私の投稿内容をバラされたり、権力を使って潰すと脅してきていた。

 

当時の私は若かったので非常に参ってしまったが、相互ブロックの関係で、同じ趣味から離れたのもあり、自分が気にしなければこのいさかいも終わると考えて気にしないことにした。

それでようやく気持ちが楽になった。

 

当時はその人がなぜそこまで執着するのか分からなかったが、今となっては私にも非があったと思う。

その人がやったことが許せなかったとしても、共通の知人がいる場で悪口を言ってはいけなかったと思うし、たとえブロック機能があっても公開アカウントである限りは投稿を見る方法はあるのだ。

鍵アカウントにしたところで晒される可能性もある。

 

今となっては彼女の怒りも分かる。

しかし、同じことを自分もやってはいけない。

 

そもそもなぜそこまで気にするのか。

もともとお互いフォローしてないし、やり取りしたこともないが、共通フォロワーとのやり取りを見ていて好感を持っていたから、ブロックされて残念なのだろう。

私は自分の失敗も投稿してるので、それで無理だと判断されたのだと思う。

 

失敗しないならそれに越したことはない、完璧なやり方ができるのであれば素晴らしいと思うし、是非見習いたいと思う。

しかし、いざその時になると冷静さを欠いてしまうのだ。

無理だと思われてもバカにされてもかまわないから、同じ失敗を繰り返してほしくない、反面教師にしてほしい、自分の失敗は罪だと思っているが、罰を受けることはできないから自分をさらけ出すしかない。

そう思っての投稿だったはずだが、想像以上に影響は大きかったようだ。

私の知らないところで私の評価が下がっている。

SNSはこれが怖いところだ。

 

Xのブロック表示はわかりやすく攻撃的だ。

引用や返信で、ブロックされてると気づく機会も多い。

自衛のためのブロックだが、怒りを買ってしまうことになりかねない機能だと思う。

 

しかし、ここで怒ってはいけない。

自分の罪と向き合うために発信したのだから、その結果で人からどう思われようと致し方ないのだ。

それが投稿に責任を持つということ。

 

ブロックされた人は、アカウント名に植物の名前を使っていた。

美しい名前で、縁起の良い植物だった。

 

ふと、ここである言葉を思い出す。

キリスト教新約聖書のことば『汝の敵を愛せよ』。

 

そこで私はハッとした。

私はなんて情けないんだと思ったし、自分の非から目をそらして人を敵視しても仕方ないと思った。

 

信仰はないが、怒りに呑まれそうになったら思い出していきたいと思った。

 

たとえ嫌いな人であっても、人として平等であり、それぞれに考え方や人生があるのだ。

それを忘れずにいきたい。

 

昨今の世界情勢で、宗教対立というものを見ていると、宗教の存在意義が分からなくなってしまう。

だけど、宗教の教えに救われる人も多いんだと思った。

 

今は心理学というものもあるけど、先人や偉人の言葉や聖書の教え、故事成語などを教訓にしてきた人もたくさんいると思う。

 

頭でっかちにならず、先人の知恵も借りて人生を豊かにしていきたい。

 

ブロックの話から聖書の話へ。

話を大きくするのが得意です。

 

だからいつも頭の中でモヤモヤ考えちゃうけど、最近は悪くないなって思ってます。

 

読んでいただきありがとうございました。